2024年8月29日カテゴリー:

節婦(せっぷ)之碑

今から300年くらい前の享保年間に大雨で日川の堤防が決壊したとき、今の山梨市一丁田中に住んでいた安兵衛夫婦の妻である栗は夫の母を連れて避難させた後、引き返して病身の夫、安兵衛を背負って避難しようしたところを濁流にのまれてしまったという出来事がありました。後にこの言い伝えを聞いた神主が栗を「希にみる節婦だ」と感動して「節婦之碑」を一町田中の陣屋に建立しました。碑文の書は甲府勤番支配を務め、能書家としても知られた一柳直敬(ひとつやなぎ なおよし)によるものでした。

しかし、その碑は明治40年の大水害で流されて行方不明になってしまったということです。

現在山梨高校の校門横にある「節婦之碑」は、昭和5年に山梨高校の前身である山梨県立山梨高等女学校に併設されていた山梨県女子師範学校の久米卯之彦校長が、女子教育の素材として活用するために場所を移し、原文を模して建てられたものです。

笛吹川は過去にしばしば氾濫し、大水害が繰り返されていました。特に、明治40年(1907年)の8月の台風では記録的な大雨となり、節婦の碑を流し去ったとともに多くの死者、不明者を出す大きな被害を出しました。

現在の笛吹川の静かな流れからは氾濫の危険性はあまり感じることができません。しかし、近年各地で発生している集中豪雨などによる被害の様子を見ると私たちの身近でそのような災害が起こらないとは断言できません。私達も身近にあるこの碑から、先人たちが残してくれた教訓や願いを学び、恐ろしい災害の犠牲にならないように一人ひとりが備えることが大切です。              

【節婦(せっぷ)】:人としての正しい道をかたく守る模範的な女性

参考 Wikipedia 一柳直敬 

 理科教室通信「やまかいの四季」山梨高校・甲府第一高校編)